パラダイム

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システム:その変遷と現代社会

          はじめに

「システム」という言葉は、現在では主にコンピュータ、とりわけ電算機のソフトウェア分野で日常的に使われています。業務システム、情報システム、プラットフォームシステムなど、私たちはこの言葉をほとんど疑うことなく使っています。しかし、この用法は必ずしも最初から自明だったわけではありません。

むしろ「システム的に考える」「関係として捉える」という視点は、近代以降の科学の中で長く軽視されてきました。本稿では、なぜ現在になって「システム」という概念が復権し、しかも電算機ソフトウェアを中心に使われるようになったのかを、思想史と社会的需要の両面から考えてみます。

         近代科学批判

近代科学は、対象を要素に分解し、分析することで大きな成功を収めました。物質、部品、因果関係を切り分ける方法は、工業・医学・化学などの分野で圧倒的な成果を生みました。

しかしその一方で、

・ 要素同士の相互関係
・ 全体としての振る舞い
・ 観測者自身が系の内部にいるという事実

といった視点は扱いにくく、周縁へと追いやられていきました。

近代科学は「物」を理解することには成功しましたが、「物と物のあいだ」に起こる現象を理論化するには不向きだったのです。

 

        アミニズム

それ以前の社会では、世界はまったく異なる形で理解されていました。アミニズム的世界観において語られる「霊」は、単なる迷信ではありません。

山の霊、川の霊、家の霊とは、

・ 自然と人間の関係
・ 場と生活の関係
・ 行為と結果の循環

を人格化した概念でした。

「霊が怒る」とは、関係を壊した結果として現実的な不利益が生じる、という経験則の表現だったとも言えます。古代人は、分析ではなく直感によって、世界を関係の網として捉えていたのです。

          近代派批判の核心

この文脈で見ると、近代派批判の核心は明確です。それは科学そのものの否定ではなく、

・ 世界は分解できるという前提
・ 要素は独立して存在するという仮定
・ 関係は二次的だという価値観

への問い直しです。

環境破壊、社会の分断、経済の不安定化など、現代的な問題の多くは、物の設計ミスではなく、関係の設計不全として現れています。近代は部品を作る技術を磨きましたが、全体をどう組み上げるかという設計図を十分に持っていませんでした。

    コンピュータとシステム概念

皮肉なことに、「関係」を再評価させた最大の要因は、最も近代的な道具であるコンピュータでした。

コンピュータは単体ではほとんど価値を持ちません。しかし、

・ ネットワークで接続され
・ 情報が循環し
・ 相互依存が生まれ
・ フィードバックが働く

ことで、まったく別の存在になります。

ここで重要なのは、コンピュータの価値の源泉が「物」ではなく「関係」にあるという点です。ソフトウェアのシステムは、人・情報・組織・手続きを結びつけ、その関係そのものを機能として実装します。

 なぜシステムはソフトウェアで主流になったのか

システムという概念が、主に電算機ソフトウェアとして使われるようになった最大の理由は、社会的需要、つまり経済性です。

ソフトウェアによるシステム化は、

・ 人件費の削減
・ 管理コストの低下
・ 規模の経済の実現
・ 行動や手続きの固定化

といった、極めて分かりやすい利益を生みます。

関係を整理し、制御し、再現可能な形にすると金になる。この一点において、システム思考と資本主義は非常に相性が良かったのです。

哲学的に正しいから評価されたのではなく、使えば儲かったから広まった。この現実は否定できません。

     システム概念の縮小とその代償

その結果、「システム=IT」「システム=業務効率化」という狭い意味が定着しました。本来は、家制度、宗教、市場、国家といった社会構造そのものがシステムであるにもかかわらず、その視野は後退しています。

関係を扱う道具が管理と収益の方向に偏ったことで、関係そのものの意味や倫理が見えにくくなった面もあります。

    アメリカの分断と日本のポピュリズム

この視点から見ると、近年顕著になっているアメリカ社会の分断や、日本におけるポピュリズムの台頭も、同じ線上に位置づけることができます。

アメリカでは、経済格差や人種問題、価値観の対立が「個々の問題」として語られがちですが、実際には

・ メディアと市民の関係
・ プラットフォームと感情の関係
・ 政治と生活実感の乖離

といった関係の断絶が重なった結果として現れています。個人が過激化したのではなく、関係の回路が極端に単純化され、対話ではなく反応だけが増幅されるシステムが出来上がってしまったのです。

日本のポピュリズムも同様です。日本社会では対立が表面化しにくい分、

・ 不満が言語化されないまま蓄積し
・ 分かりやすい敵や物語に回収され
・ 一時的な安心感として消費される

という形を取りやすくなります。ここでも問題は個々人の判断力ではなく、社会の中で不満や違和感が循環・調整される関係の仕組みが弱体化している点にあります。「論破」はそのコメントを出す人の判断ですし、自分の意にそわない人をやっつけるだけで、相手を納得させようとの要素は全くありません。ただ単に「憂さ晴らし」のコメントだと思います。

 

    システムが政治を飲み込むとき

本来、政治は多層的な関係を調整する営みでした。しかし、システム化・デジタル化が進むにつれて、

・ 複雑な問題は単純な指標に置き換えられ
・ 長期的な関係より短期的な反応が優先され
・ 感情がアルゴリズムによって収益化される

という構造が強まっています。

これは政治の劣化というよりも、関係を金に変えるシステムが、政治領域にまで浸透した結果だと見る方が自然でしょう。

          おわりに

システムという概念は、新しく生まれたものではありません。古代には「霊」として、近代には無視され、現代ではソフトウェアとして再発見されました。

形は変わりましたが、人間が見ていた対象は一貫しています。それは「物」ではなく、「物と物の関係」、そしてその構造です。

アメリカの分断も、日本のポピュリズムも、関係が設計されず、あるいは金になる形でのみ設計された結果として理解できます。

現代社会では、儲かるものだけが価値あるものとして「真実」となります。そして、お金を無視して物事を語る事が「青臭い」と言って切り捨てられていきます。システム概念が復権した背景にも、言えることかもしれません。

「霊」を捨て、「システム」を再度手に入れた私たちに、今問われるのは、お金ですべてを考えていたり、カルト教団の様に誰かにうまく洗脳されていないかを冷静に判断する姿勢だと思います。