パラダイム

あなたの視点はどこにありますか?

「日本」という天動説

 

はじめに

夜空を見上げる人間の視線は、歴史とともに進化してきました。

自分の足元を世界の中心に据えた「天動説」から、望遠鏡というテクノロジーによって一歩引いた客観を得た「地動説」へ。そして宇宙空間へと想像力を広げ、絶対的な中心など存在せず、すべては観測者の立場(座標系)によって変化するというアインシュタインの「相対性理論」へ。

これは単なる科学の進歩ではなく、人間が「自己中心性」から離脱し、視点を自由に移動させて世界を構造的に理解していく、精神の拡張の歴史でもあります。

しかし、ひるがえって私たちの「一般社会理論」や日々のニュースに目を向けたとき、私たちは驚くほどこの「立脚点(どこに立って物事を見ているか)」に対して無自覚ではないでしょうか。

物理の世界では相対性理論を語る現代人が、社会を語るときには、いまだに強固な「天動説」の罠に囚われている――。その最たる象徴が、私たちが何気なく使っている「日本」という二文字の取り扱いです。

「日本国」と「日本国民」の利害相反

現在の政治や経済の議論がこれほどまでに混迷を極める最大の原因は、「日本」という大きな主語の中に、全く異なる二つの立脚点がごちゃ混ぜにされていることにあります。

それは、「日本国」という統治システム(マクロ・法人)**と、**「日本国民」という生身の生活者(ミクロ・個人)です。

この両者の利害は、しばしば完全に相反します。
例えば、財政の帳簿を合わせるために増税や負担増を画策するのは「日本国」のシステム維持の論理ですが、それによって可処分所得を奪われ、実質的な購買力を損なわれるのは「日本国民」です。国債の管理や通貨価値のコントロールといった国家の都合と、日々のパンの価格や実質賃金の豊かさという個人の都合は、同じ「日本」という言葉で括られていても、その目的関数はまったく別物なのです。

物理学が教えるように、立場が違えば見えている「現実(時空)」は異なります。しかし、社会論においてはこの二つの立脚点が意図的に透明化され、一つの「天動説」的なフィクションへと回収されてしまいます。

「日本」という主語をハックする者たち

この立脚点の曖昧さは、単なる言葉の乱れではありません。社会の各プレイヤーが、それぞれの都合に合わせてこの主語を巧みに「ハック(利用)」しているのが現実です。

一部の政治家は、国家(政府)の都合や負担を国民に受け入れさせるため、意識的にこの境界線を混同させます。「政府の財政赤字」や「国家の負担」を「日本の危機」「私たちの未来」と言い換えることで、ミクロの生活者をマクロの都合に強制的に同期させる統治のレトリックです。

一方で、メディアに登場する評論家たちは、さらに洗練された戦術をとります。彼らは自身の結論やポジションに合わせて、都合よく座標系をスライドさせます。政府や大企業の論理を通したい時は「日本国の国際競争力(国家の視点)」を語り、大衆の受けを狙いたい時は「日本国民の生活苦(国民の視点)」へと急に飛び移る。前提となる立脚点をコロコロと変えるため、そこにはまともな検証も反証も成り立ちません。

そして私たち国民もまた、純粋に客観的な「日本」を見ているわけではありません。多くの場合、私たちは特定の選挙制度における「投票者」であり、特定の利益を代表する「支持者」という極めて具体的な立脚点に立っています。自分の世代や業界の利益を最大化してくれる勢力の大義名分(「日本のため」という言葉)を、自らの正当化に利用する。国民の側もまた、「自分たちの利益=日本の利益」という、ミクロな天動説の罠にはまっているのです。

「社会の相対性理論」を取り戻すために

政治家が騙し、評論家がすり替え、国民がそれぞれの足元から自分の見たい「日本」だけを主張する。これでは社会の構造が正しく見えてくるはずがありません。

いま、私たちが手にするべきは、社会理論における「望遠鏡」であり「相対性理論」の視点です。

誰かが「日本」という大きな主語を口にした瞬間、私たちは一歩引いて、冷徹にその座標系を問い直さねばなりません。
「いま、この人物は、国家の帳簿(システム)の話をしているのか? それとも個人の生活(実質価値)の話をしているのか? あるいは、特定の支持層の利害を代弁しているのか?」

主語の解像度を上げ、それぞれの立脚点を明確に区別すること。
それこそが、自己中心的な「社会的天動説」から脱却し、この混迷する時代を生き抜くための、最も本質的な生存戦略(パラダイム)になるのではないでしょうか。