考え方

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国府宮の裸祭り

裸祭りは全国にあり、禊と豊穣・豊漁に大別されるらしい。禊は旧1月なので冬、豊穣・豊漁は旧8-10月なので夏に行われることが多い。

 

 

ここでは一番マスコミで取り上げられている稲沢市尾張大国霊神社(国府宮)の裸祭りにつて書きます。

多分皆さんが一番なじみがあると思いますが、その古い形や真の意味を知る人は少ないと思います。

この祭りは神護景雲元年(767年)称徳天皇の勅命により始ったとされますが、その下地となった祭祀があったと思われます。

旧暦の1月14日儺追神事(夜の3時ごろに行われるので、夜儺追神事=よなおいしんじ とも言う)の前夜祭が裸祭りで13日に行われます。今年(2023年)は2月3・4日なので終わっています。

裸祭りは神男が禊(みそぎ)のために儺追殿で入るまでに神男に触って1年の厄を払ってもらおうとする祭りで、次の日の丑三時(明け方3時)少し前に神男は境内の中にある壁のない建物(庁舎)に連れ出されます。薄い白装束1枚で寒い真冬です。

この時はもう神男に触ると逆に厄がつくので、神男の周りの人は一斉にどきます。庁舎で神事が行われますが、神男は庁舎の隅に腰掛けています。神事が終わると土の餅を縄で背負わされます。丑三時になると庁舎の周りを神男のOBに抱えられて回りますが、このとき見物人は柳の灰を混ぜた礫(つぶて) で追い払います。

その後、神男は誰にも見られないように土餅を埋めて自宅へ帰るのが本来ですが、今は無理だと思います。

近年は神男になるのは名誉と考えらえていますが、大昔は人身御供で、13日になると男たちが辰巳の方向に走り、いた人を捕まえて神男にしました。これを模して裸祭りになりましたが、時には死者も出たようで、神男の所属する村が仕返しに来ることもあったようです。江戸時代に入って神男は名誉あることとなり、志願者が増えたようです。

また、この行事は縄文文化の影響を残しているとの意見もあります。

 

夜儺追神事は真夜中でも結構人がいます。しかし、裸祭りの足の踏み場もなく騒然としていたことと比較すると、随分さびれた感じがします。

 

 裸祭りは 国府宮の周辺住民が旧暦1月13日昼過ぎに、大勢で辰巳の方向にいる見も知らずの人を捕まえ(この方向の人は1月13日になると家の中じっとしていたようで、捕まえられるのは旅人)国府宮で神男として禊をさせ、翌14日の明け方丑三時に石で国府宮から追い払い。倒れたところに埋め(生き埋め)厄を払う生贄にしたが、原初のようです。土餅に人型が刺さっていたような気もします。土餅を埋めるのは、神男を生き埋めにした名残と思います。

またツブテで厄を追い払うのは節分の豆まきにそっくりで。豆まきと関係がありそうです。