明治時代に役人になった人達
はじめに
維新の志士の話はよくされますが、具体的な行政には政府の公務員や地方行政も必要です。そういった人々はどのように選択されたのでしょうか。また、彼らが帝国憲法の下でどんな役割を果たしたのでしょうか。
内閣
行政の事務はいつでも必要となります。幕藩体制が終わり、明治政府が作られた際も、事務処理がスムーズに移行する必要がありましたが、具体的にはどうだったのでしょうか。まず、首相は誰だったのかを列挙します。
内閣総理大臣
代 | 就任 | |||||||
明治時代 (1868年 - 1912年) | ||||||||
1 | 伊藤博文 | 1885年12月22日 | 長州 | |||||
2 | 黑田清隆 | 1888年4月30日- | 薩摩 | |||||
- | 三條實美 | 1889年10月25日 | 公家 | |||||
3 | 山縣有朋 | 1889年12月24日 | 長州 | |||||
4 | 松方正義 | 1891年5月6日- | 薩摩 | |||||
5 | 伊藤博文 | 1892年8月8日- | 長州 | |||||
- | 黑田清隆 | (1896年8月31日 | 薩摩 | |||||
6 | 松方正義 | 1896年9月18日- | 薩摩 | |||||
7 | 伊藤博文 | 1898年1月12日- | 長州 | |||||
8 | 大隈重信 | 1898年6月30日- | 佐賀 | |||||
9 | 山縣有朋 | 1898年11月8日- | 長州 | |||||
10 | 伊藤博文 | 1900年10月19日 | 長州 | |||||
- | 西園寺公望 | 1901年5月10日- | 公家 | |||||
11 | 桂太郎 | 1901年6月2日- | 長州 | |||||
12 | 西園寺公望 | 1906年1月7日- | 公家 | |||||
13 | 桂太郎 | 1908年7月14日- | 長州 | |||||
14 | 西園寺公 | 1911年8月30日- | 公家 | |||||
大正時代 (1912年 - 1926年) | ||||||||
15 | 桂太郎 | 1912年12月21日 | 長州 | |||||
16 | 山本權兵 | 1913年2月20日- | 薩摩・海軍 | |||||
17 | 大隈重信 | 1914年4月16日- | 佐賀 | |||||
18 | 寺内正毅 | 1916年10月9日- | 陸軍 | |||||
19 | 原敬 | 1918年9月29日- | 盛岡 | |||||
- | 内田康哉 | 1921年11月4日- | 熊本藩医 | |||||
20 | 高橋是清 | 1921年11月13日 | 仙台足軽 | |||||
21 | 加藤友三郎 | 1922年6月12日- | 広島・海軍 | |||||
- | 内田康哉 | 1923年8月24日- | 熊本藩医 | |||||
22 | 山本權兵衛 | 1923年9月2日- | 薩摩・海軍 | |||||
23 | 清浦奎吾 | 1924年1月7日- | 熊本の寺 | |||||
24 | 加藤高明 | 1924年6月11日- | 尾張下級武士 | |||||
- | 若槻禮次 | 1926年1月28日- | 松江下級武士 | |||||
25 | 1926年1月30日- | |||||||
昭和時代 (1926年 - 1989年) | ||||||||
26 | 田中義一 | 1927年4月20日- | 陸軍 | |||||
27 | 濱口雄幸 | 1929年7月2日- | 官僚 | |||||
28 | 若槻禮次 | 1931年4月14日- | 松江下級武士 | |||||
29 | 犬養毅 | 1931年12月13日 | 吉備庄屋 | |||||
- | 高橋是清 | 1932年5月16日- | 仙台下級武士 | |||||
30 | 齋藤實さ | 1932年5月26日- | 海軍 | |||||
31 | 岡田啓介 | 1934年7月8日- | 海軍 | |||||
32 | 廣田弘毅 | 1936年3月9日- | 外交官 | |||||
33 | 林銑十郎 | 1937年2月2日- | 陸軍 | |||||
34 | 近衞文麿 | 1937年6月4日- | 公家 | |||||
35 | 平沼騏一郎 | 1939年1月5日- | 法学者 | |||||
36 | 阿部信行 | 1939年8月30日- | 陸軍 | |||||
37 | 米内光政 | 1940年1月16日- | 海軍 | |||||
38 | 近衞文麿 | 1940年7月22日- | 公家 | |||||
39 | 近衞文麿 | 1941年7月18日- | 公家 | |||||
40 | 東條英機 | 1941年10月18日 | 陸軍 | |||||
41 | 小磯國昭 | 1944年7月22日- | 陸軍 | |||||
42 | 鈴木貫太郎 | 1945年4月7日- | 海軍 |
公務員
明治政府は国家機関や地方自治の機関が必要であり、江戸幕府の仕組みを利用しました。
国家公務員の仕事をしていたのは主に旗本でした。地方公務員の仕事は藩士が担っていました。県知事も最初は、その地域の大名が任命されました。警察機構は西南戦争で武士の集団が圧倒的に強いことがあり、主に士族が採用されました。戦前、役人や警官が威張っていたのは、こうした背景があります。要するに、役人には士族が多かったのです。
35年ほど前の役所で、手続きに1時間以上かかことがありました。その間、その部屋の管理者であると思われる人はほとんど動きませんでした。私はそれがとても大変だと感じました。そのころまでは、役人=士族であるとの感覚がまだ残っていたのかもしれません。最近、法務局で登記手続きを行ったところ、非常に親切に対応していただきました。15年ほど前までは、少しの間違いでも担当官が厳しく指摘してくることがよくありましたが、今回は大きく違いました。
藩士の仕事
以前、武士であった藩士は、平時になると城に出勤する必要がありましたが、戦争がない時代が続くと、彼らは暇な時間が多かったと聞いています。さらに、一つの仕事を複数の藩士が担当することが一般的でしたので、責任が不明確になることもありました。この状況が役所の仕事のやり方に影響を与えたかも知れません。
最近では、アウトソーシングが一般的になり、役所の仕事が外部の企業や業者に委託されることが増えています。これにより、役人の数が減少し、労働条件の悪化が引き起こされているとも言われています。
知事
知藩事として、藩主を指名した。しかし。明治4年7月に制度が変更され、元藩主は華族となり知藩事を失職しました。
おわりに
総理大臣は自由民権運動の闘士であった大隈重信までは、ほとんどが薩摩と長州の間で交互になっていました。これが現代にも影響を与えています。明治初期には、幕藩体制の統治機構を利用しましたが、それが30年以上の不況を引き起こす一因となっているかも知れません。